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田無日記

映像編集者 1977年生まれ

牡蠣工場

想田和弘監督の新作「牡蠣工場」http://www.kaki-kouba.com/

が、公開されている。

昨今、テレビでも映画でも、ドキュメンタリーといえども、ナレーションや音楽、テロップは、ごくごく当たり前にあるものという前提で、みんな観ていることだろう。

それが、この映画にはない。

 

わかりづらければ、ナレーションとテロップがつく、気持ちや状況を補強するために、そこへ音楽もつく。作り手の意図満載である。

まあ、それはそれで、伝える、という意義においても別に間違っているわけでもないけれど。ただし、ナレーションやテロップ、音楽を使うことで、シーンや映画の結論が、とても一面的なものに回収されがちで、思い通りに作り、思った通りのことだけを感じろ!という作り手にとってはよいのかもしれないけれど。時に、それはやはり薄っぺらい。(力強いこともありますが)

「分からなくてはダメだ!」ということが、水戸黄門の印籠のように振りかざされるテレビ業界の試写においては、想田さんの映画のように、人物関係がよく分からない、かなり注意深く見ていないと分からないという編集であれば、まず、直されることだろう。

もしくは、それぞれの関係が分かるように、テロップを入れようということになる。

そして、それは親切かもしれないけれど、観ている人間の注意力や映像を読み取るリテラシーを育てないということになってしまうような気がする。

まあ、そんなに多くの人が注意深くテレビを見たいかというと、そういうわけでもないだろうけれど。

テレビは作り手側そのものが、視聴者に対してハナから分からないだろうというスタンスだったりして、失礼極まりない部分もあり、もう少し、観る人の映像観察能力というか感性のようなものも含めて、信じていいのではないだろうか。

そして、「分かりやすさ」を指向することの弊害は、作り手が怠惰である場合、作り手の「分かる」世界だけで終始してしまい、ものすごく「当たり前」のものしかつくられなくなってくる。

 

分からないことも含めて、映像に残されていることも重要で、想田さんの作品には、それも多い。工場の若い奥さんが、お昼を作りながら、仕事について話している、本人は喋りながら、撮られているという事を意識して話している部分と、素の部分をいったりきたりする、それをカットせずに使う事で、その人のパーソナリティが随分、濃く分かる、気にある。カメラが介在するという行為の本質が、随所に出ている。

どうしても、そういうオフっぽいところというのは、テレビの編集では、どうしても切ってしまうことが多くて、それは、番組の流れと関係ないところがあると、流れがわかりづらくなるから、という理由である場合が多いけれど、決して、すべてが「流れが分かりやすく」を目指さなくてもいいのではないか。すべてが、分かりやすさを指向し続けたら、どれもこれも同じものになってしまうのではないか。

情報を分かりやすく、ナレーションで整理して、テロップと音楽で補強する。

まあ、それで「分かりやすく」もなるし、「分かった」気にもなると思う。

 

それでも、実際の世の中は、そんなに分かりやすいものでもないし、割り切れない。

割り切れない、もやもやとしたものが、映像に多く写っていていいのではないか。

一言一句、1カット1カット、意味で埋め尽くされている映画より、豊かでたのしいものだと思う。