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田無日記

映像編集者 1977年生まれ

自動機械

NNNドキュメント南京事件」を観た。

昨今は、この虐殺がなかった、などという人々もいるようではあるけれど、完全にあっただろうことは疑えない。

殺された人数が、何人だったかということではなく、無抵抗の人々に、銃口がむけられ、殺されたという事実だけで充分だ。

 

多くの捕虜を本当に殺したかった、そういう「主体」はどこにあったのか、とにかく捕虜を全員殺したいと思った「個人」はいたのだろうか。

 

もしかしたら、誰一人として「個人」として、捕虜をすべて殺したい、と思っていなかったかもしれない。なのに、大規模な殺人が起こったのは何故なのか。

 

明確な、個人的怨嗟による動機なしであるからこそ、動機がないからこそ、自動機械のように、命令に従っただけ、自分がやらなければ自分がやられるという仮定による自己正当化で、虐殺へのハードルは一気に下がる。

「自分は悪くない」「仕方なかった」「誰でもそうしたはずだ」

すべての戦争行為が、そのように正当化されるのであれば、まあ、永遠に戦争はなくならないだろう。事実、人類の滅びるまで、殺し合いはなくならないだろう。

 

南京事件が、あったかなかったか、どのような規模であったか、ということは、本当には意味がなくて、そもそも、なんで、人が人を殺さなければならないのか、ということを考えたほうがいい。

 

戦争で人が死ぬよりも、人食い族が食べるために、人を殺すほうがなんだか、よほど理にかなっているようにも思われる。

戦争で、なぜ、殺すのか、分からぬままに、殺せと言われたから殺し、そして多くの人が死に、一度国は滅び、生き残った者で国を再建した。

何がいけなかったか、それは「個人」が兵士となり「殺す」ということを徹底して、放棄しなかったからに他ならない。そう考えると、今も同じことは起こり得るだろう。

勇ましく「殺せ」といった「個人」は、自らに「殺す」という明確な殺意もなく、行為もなく、ただの「立場」から「殺し」を命じたのだろう。

そして、誰かがこれに従った。

誰になんの明確な意志もなく。「敵」が作られ、「殺し」が始まった。