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田無日記

映像編集者 1977年生まれ

処分

殺処分は、ふと、ホロコーストに似ているのではなかろうか、と思った。
なんとなく文明国ならば、野良犬野良猫はいないもの。野良犬は咬んだり狂犬病が怖いので、絶対に捕まえるべきという空気ができて、強くそれに賛同するのはほんの一部の人でも、強く反対する人は現れず、法整備されれば、あとは役職などが出来て、仕事として野良犬は殺処分される。
なにをしたわけでなくとも、飼い主のいない犬であるということ、その一点で殺される。いってみれば、ユダヤ人だから収容所送り、になることと一緒だ。野良犬であることが悪いわけでもないし、ユダヤ人であることが悪いことであるわけでもない。善悪の判断を、個別具体的な犬や人に、それぞれ当てはめず、野良犬は殺すことになっているから殺す。それが決まりだから。アイヒマンのように、そこで思考停止して、これは仕事なので、と無自覚に自動的に殺している。
犬や猫の殺処分は、虐殺行為である。
それでは、鶏や牛も殺されているではないかということがあるけれど、それは「食べるため」という生き物において重要な行為でのことで、誰かの迷惑になるから、殺すことに決まっているから殺す、ということとは、まるで違う。
野良犬は放っておけばいずれ誰かを咬むかもしれない、ユダヤ人は放っておいたら、富を独占してしまう。
恐怖を煽れば、人は反対しづらくなる。狂犬病は確かに怖い、けれど、それが本当に野良犬を殺処分するという解決方法しかないのか。
本当に、他の方法がないのか、充分に考えられた形跡はあるのか。どこかで誰かが殺している、それを多くの人が見ないことで考えないことで、虐殺は続いている。
ホロコーストだって、世界の多くの人が見ないようにしていたからこそ、起こったわけだ。見なければ、感じなければ、どんなに酷いことも、その人個人にとっては、「ないこと」として世界は安定している。
うっすらと世界のあちこちで、酷いことは続いている、でも、今自分の目の前では起こっていない。だから、平気だ。
多くの人は、そうやって生きている。それは仕方ないことだけど、自分が虐殺者のサイドにいるという認識をもつことは重要。罪悪感とともに生きることが、必要不可欠だと思う。