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田無日記

映像編集者 1977年生まれ

一年の速さについて

あっという間に一年が過ぎると、毎年思うのは、おっさんだから、物事に新鮮味がなく、惰性だからなんだろうけれど。

かといって、新鮮な経験や、したことない事をする事自体は、ストレスにしかならなかったりもして、一体、どうしたらいいのか。

したことがなくて、楽しい事をすべきなのか。

 なんだろう、たのしいことって。

 

一年の早さを考えると、死ぬのも、すぐそこな気もするから、なるべく気をつけないといけない。このまま、一年の速さがドンドン速度を増し、借金だけが増えるとなれば、死ぬ、というほかのチョイスがなくなるようにも思う。

 

ムリをかさねても。

最近は、つくづく組織で仕事するのが、面倒だな、と思うようになって、毎度のことながら、よくない傾向だけれど。

そもそも、資本主義、株式会社、義務教育、など、戦後70年ずいぶんと隆盛を極めてきたけれど、その限界もみえてきて、とにかく、その限界と変化に対応しなくちゃいけないのに、なかなか、対応できない人間のダメさ加減ということもあって、どうしたものか。

 

大きな組織で、大きな資本をまわして、多くの人の雇用を守るという状況が、おおよそ維持できないような局面を迎えても、なんとか維持するように旧来のルールを守り続けても逆効果であるような気もする。 

有能な人も無能な人も、一律に給与であり、年功序列で給与が上がるということを維持するだけの、利益が出てないのに、それを続けようとすると、結局、より多くの仕事をより少ない人数でこなさざるを得ない状況がうまれるわけで、そこらへんは変えていかなくては、到底立ちゆかなくなるようにおもうのだけど。

 

開くか閉じるか

大番狂わせで、トランプさんが大統領になって、だいぶ、色々なことの歯車がズレてしまったような感じはするけれど、しかし、状況を考えるに、グローバル化により、自国で損をせざるを得なくなった層が思いのほか多かったという事の顕在化であり、わりと予見された結果なのかもしれない。

 

日本にしても、コンビニや居酒屋の店員さんは、外国の人が多い。商品も外国で生産されたものが安く売られてる。

国産は高いから。

資本主義のグローバル化は、結果的にとにかく安い原材料と人件費を追い求めるものになるわけで。安く作って高く売るのが、資本をもっているものの、太る手段なので、それは資本主義である限り、自国民の生活などはさておいて、資本を持っている者は資本を増やすことに邁進するのは道理である。

その点では、トランプさんは、一見、労働者の味方のようにして、当選したけれど。そのじつ、富裕層や、資本主義が機能しないとならない世界での勝ち組なわけで。ほんと、地道な自国での、自給自足的な世界で、成り立つのか。わりと、心許ないのではないか。

 

しかし、そのなかで、内向き化を進め、世界の事よりも自国のことを第一に考えるのは、ある意味では不合理であるかもしれないけれど、自国の無能な無産階級の面倒もみるということであれば。無能を切り捨てられなくなるわけで。

グローバルな市場での競争よりも、いま、いる自国民の日々の充実を図るならばいいかもしれない。

アメリカの内向き化は、ローカル経済の自立、行きすぎたグローバル化の調整として成功したら、それはそれで希望のあることに思える。

 

日本が江戸時代、鎖国して300年、それなりの安定と繁栄があったことを思えば、アメリカのような大国がローカルに切り替わる事は、グローバル化はのがれられないとするドグマから、自由になり、バランスのいい身の丈の国の運営というものが叶うかもしれない。

という、希望的観測も、ある。

 

 

いつまでも通じるわけがない

いまでも、世間の平均的な親は、子供にいい大学、いい会社を、って思ってるのだろうか。

そうだとしたら、自分達がまだまだ、いい会社でいい思いをしてるからなんだろうけど、僕などは、別にいい会社でもないし、到底、子供もいい大学、いい会社に入るような能力はないので、そもそも、そんなことは思わないけど。

しかし、実際のところ、株式会社はこの先、成立し続けるのか、僕は懐疑的だ。

 

大勢が、ある方向性をもって働いて、それで全員がある程度の富を得て、それも歳をかさねるほど、その額があがるなんていう事が、続けられるのだろうか。

そもそも、このみんながみんな会社に入って、サラリー貰うっていうのが、一般化したのは戦後だ。それまでは、ほとんどが自営業。家族で営むか、町や村の一部の集団で仕事を作っていくか。一次産業が多かったし、それで成り立っていた。

まあ、そこに戻るわけにもいかないだろうけど、かと言って、ある時代に有効だった社会の形に固執して、それを維持しようとしたら、歪んで色々と不具合が起こるような気がする。

それが、格差社会だったりするのは、自明だと思うけど。

 

50〜60代の人が、いまの若者がだらしないとかいう、もしくは右傾化するのは、自分の価値観、自分の生きた時代から離れられないから、まったく今の時代を見ずに、威張っているだけで、若者にとっては、どっ白けるし、ウザいこと、この上ない。それでも、株式会社システムにいるおっさんたちのほうが、手練手管、ノウハウを持っていて、若者はあんまし勝てない。

だから、働かない。働く気がしない、っていうのは、わりと、もっともかもしれない。

 

おっさん達が、いいとこ持っていって威張るだけ威張って、それに従っていて、僕たちいいことありますか?っていうのが本音じゃなかろうか。そして、なにより若者がおっさんに何か言っても、一切聞く耳ない。

 

安倍昭恵さんと西田さんの対談インタビューを読んで、関係ないかもしれないけど。おっさんと若者の分断、あらゆる分断の極北を見た気がした。

http://lite.blogos.com/article/197071/

 

この話の通じなさが、半端なくて、びびる。人間、話せば分かり合えるなんていう、生易しい世界はここにはない。

安倍昭恵さんには、きっとなんら悪意ないんだろう。なんか、世界を日本が、私が救わなくちゃいけないと直感してるのだろう、だからこうやって活動する私は、開かれた人間であり、それをみんなに分かっていただきたい、みたいだ。

それは、まあ、いいと思うんだけど。

そんなタワゴトは、時給700円で働き続けてから言ってくれよ、っていうのがほとんどの人間の思うところだろう。

ほんとに、世界を救う気があるなら、気になった人を呼びつけるとか、会いにいくとか、ぬるいことでいいのだろうか。

そういう、高い所から分かったようなこと言って、理解者のような顔して、若者を崖から、その実、突き落とすような社会にしていく人間は大勢いる。

結局、安倍夫妻は、戦前戦後と続く資本家政治家の流れの真ん中にいる人たちだから、今までの日本が素晴らしく美しいわけで、それを維持延命することが、自分の血筋の存在証明なんだし、結局、それしか知らないし分からないから、出来ないと思う。

 

いま、日本の高齢者は過去しかみることができない、だって、あの頃はよかったんでしょうから。自分の過去がいまの惨状をうむ種をうみ育んでたなんて認めたくもないだろうし。

そして、いま、ダメなのは、いまの若者が頑張ってないから、ってことらしいから。

 

受験か

んー、受験。

しかし、このまったく昔と変わらぬ感じはなんだろう。まあ、テストの点数と内申点。

それをとれぬものは、落ちこぼれ。相変わらず、分かりやすい。

とにかく、どっかの高校に入れ、っていう感じ。

 

大人になって思うに、大体の人間は勉強なんてしたくないのに、高校にいくわけで、これはなんかメチャクチャ意味ないことなのではなかろうか、と思わなくもない。

もちろん、優秀な人は高校に行くべきだし、言われなくても行くし、なにかやりたい事のある人間も行くし。

問題なのは、なにもやりたいことはないけど、そして勉強もしたいわけじゃないけど、なんか行けそうな高校にいくという輩である。

そんなこと、なんか意味あるのか。

 

まあ、かく言う自分も、高校は行け、と言われ、ただただ行った人間なので、意味のない輩の一員であるが。まったくそのとおり、高校はまったく意味がなかった可能性が高い。

高校生活になにか有意義な意味をつけることはおよそ出来ない。

 

意味なくても、あとあとになってそこに意味がうまれるものだ、だから、高校は行くものだ。

意味なんて、人それぞれ違うから、一概にはいえない。

まあ、まったくそのとおりで、勉強したくないという人間が何故高校にいくのか、私は大いにナゾだけど、まあ、大体の人が行くんだから、なんか、意味あるのか。もしくは、意味なんてものは意味がないのか。

 

でも、まあ、もしかしたら、意味が探せそうな高校に行く、というのが正解で、最初から意味ありきではなく、ここなら意味あるかもというところに行くべきなのかもしれない。

勉強はしたくない、でも、ここだったら、なんか行く意味あるかも、、、そんな高校あるのか、、、。

 

では、高校は勉強しに行くところという前提が間違ってるのか、。

よく、学校は勉強だけじゃない、社会性を身につける場であるなんてこともいわれるけれど。

 

百人百通りの高校に行く意味、そして意味のなさがあるんだろうけど、まあ、もう、自分が受けられるわけでもないから、ただただ心配。

 

 

 

 

単なる説明なのではないだろうか

映像を何かの解説として使うことは、世の中にあってしかるべきではあろうけれど、解説のためにすべての映像がある、とされれば、それは窮屈至極ではないか。

映像を、なにかの興味へのとば口、入り口として使うほうが、はるかに人に有益で豊かな気が、自分はするのだけれど。

とかく、いまのテレビは、分かるか、分からないか、の二極化が甚だしく。分かりやすく作ることが、至上命題

興味をひくようなことよりも、分からなければ、意味がない。 

なにか、よく分からないけれど、おもしろい、興味をひかれる。という、方向性はない。

みんな、分からなければ、ダメなのだ。

多くの人が分かることが、重要らしい、、。

 

そんな映像、はたして楽しいのか、根本的な懐疑を覚えざるを得ない。

知らない事を、説明されるような映像で、説明されて、簡易に分かって、嬉しいということもあろうけれど。

それは、単なる説明、にすぎないのではないだろうか。

んー。

バカはバカなのであった。

結局のところ、底辺は底辺である。

感情のコントロールや、頭脳の下地からして、遺伝的にバカの子は、バカなんだな、と実感することしかなくて、バカとバカが結婚しても、バカしか生まれないことを考えれば、有能な人が、何人もの子供を持つほうが、意味がある。

バカの子は、バカな理由で、底辺的ないがみ合いで、バカらしい道をいく。

ことのほか、少子化の昨今、バカを製造しても、なんら即戦力にならないことを考えれば、なんらバカの子にはなんの有用性ないな、と思わなくもない。

 

でも、バカと決める基準も、バカの仕業となると、バカのループなので、みんなバカになるのではなかろうか。