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田無日記

映像編集者 1977年生まれ

オトナのいうことは、ひとまず、きかない。

親が、勉強しなさい、って言うのも、会社の上司が、あれしろこれしろ、って言うのも、結局、若者のヤル気を殺すのではなかろうか。

もしくは、勉強しなさい、と言わなくてはならない状況は、勉強むいてないってことだし、同様に、あれしろこれしろ、と言わなくてはならないのも、むいてないことだから、だと思う。

勉強する人はするし、仕事も好きだと自分で考えてあれこれしてしまう。

なんで、勉強する人、自分で考えて仕事できる人の邪魔をしないのが、年長者の心得か。

しかし、世の年長者の、俺のいうことをきけ感は、半端なくて、そうやって、若者をモノ考えない都合のいい労働力として、使い倒すと、未来は危険。

子供にも、散々、命令や、決まり事でがんじがらめにしておいて、最終的には自分で考えなさい、とか言うから、オトナは虫がよすぎるでしょ。

 

どうせ、親がなんかいうから、どうせ、会社がなんかいうから、そういう思考経路に若者を追い込んで、無気力化してはならないのは、自明の理。

とにかく撮る、とりあえず、撮れない状況

映像業の人がちゃんとイメージや映像から発想して、作品を作っているかというと、全然そんなことはなくて。文字での構成ありき、結論を書いて、それから映像を撮るなり、アーカイブから持ってくるなり、することの方が多い。

つまり、あらかじめ、撮るものは決まっているし結論もあらかた決まっている。

 

こんなかんじのものが撮れるかな、と脳内のイメージだけで撮り始めることや、何が撮れるか分からないけれど、ある事象にカメラをむけてみよう、なんてことは限りなく少ない。そもそも、プロと呼ばれるお金が介在する場合は、「とにかく撮る」なんてこともない。

「とにかく撮る」というところから、始められないということは、映像業のもっとも不幸なことであるけれど、その不幸はデフォルトになって、もはやスタンダード。

とにかく、紙に書かれた事通りのものが撮れてつなげて、優秀とされる。

目の前の事象よりも、机上が優先なので、目の前ですごいことが起こっても面白いことが起こっても、そこにはフォーカスされない。ただ、事前の予定と違うとされるだけで、むしろNGだったりする。

「とにかく撮る」そうしたら、予期せぬ発見と出来事が待っていたなんて、ドキュメンタリー的最上の時間がおこりにくくなっている。

もしくは、起こっていても誰も気づかなくなっている。

 

とにかく、面白そうだから、撮ってみたらってことに、お金が動きにくい状況は、ほんと不幸だし、それが常態化したら、机上で考えた事に今まで撮られた映像を貼り付けて、なんら新味のない、答え合わせのような映像ばかりになる。

自分で書いたものに、映像あてはめて自分で答案つくって、一体なにが楽しいのだろうか。

未来にむけて、働く

会社を守るか、更新するか、を考えなくてはならない状況があるとして、その時、やはり更新すること、未来像を描くことこそ大事だと思うけれど。

いまや、未来に対する展望を見失ってる老人世代は、更新ではなく、守ること、高度経済成長期のマボロシを追うばかりで、若い、未来ある人たちとの溝は開くほかない。 

未来ではなく、今まで溜め込んだものを、どれだけ維持するか、そのことしか頭にない旧世代と、そのような溜め込んだものの恩恵に預かれることのない世代との、スレ違いは、半端ない。

なにをこのジジイ達は言っているのか意味が分からない。

それが、若い世代の本音だと思う。

お前らは、これまでのウマイ汁を維持するために、若い世代を犠牲にしても、痛くも痒くもないだろうけれど、そうはいかねぇよ、いかせねぇよと。

 

どうやったら、既得権益を破壊して、新しい未来志向の労働や経営のかたちを作れるのか。

それは、とにかく、先行世代の言うことをきかないで、自分で、考えること。とにかく、考え抜かないと戦えない。

考え抜いたすえに、うまくいくかわからないけれど。

感情失禁

鈴木大介さんの著書「脳が壊れた」という本がおそろしい。

 

脳が壊れた (新潮新書)

脳が壊れた (新潮新書)

 

 僕も、そろそろ39歳になるので、脳が壊れる恐れが充分にある。

もしくは、部分的にはすでになんかしら壊れているのではなかろうかと思わなくもない。そもそも、感情失禁。ある感情に対して、脳の機能が壊れているがために歯止めがきかないなる状態があるらしい。鈴木さんは、それが比較的ポジティブに発露し、他者への感謝が溢れに溢れて仕方なくなり、滂沱につぐ滂沱というか、完全にどうかしている泣き上戸になってしまったらしい。でも、赤ちゃんなどが、激しく泣きわめくをみてもわかるとおり、感情失禁は、それを抑制するためにトレーニングともなっているわけだ。

ぼくで言えば、お酒を飲めば感情的になることが多くなった気がする。アルコールの作用で、脳の情動が制御されているのが、はずれて失禁するのだろう。

きっと総じて感情の発露が一般と違う人は、脳のどこかが壊れているのかもしれない。

普通は、脳梗塞のような病にかからないと、分からない感情の絶妙な制御抑制のシステム。

それにしても、僕がどんどんお酒を飲むとめんどくさい人間になるのは、脳のどこかで小さな梗塞をおこしていて、アルコールによってなんらかの影響がでるのではなかろうか。

感情失禁を脳の仕業と考えると、どのような状況で、どのような脳の状態にもっていくか、極めて重要かもしれない。

根幹的な映像

仕事とはなにか、根幹的な問いだけど、僕の生業である映像であれば、それは、見たいものをみせるという原初的な映像の役割からはじまって、より抽象度の高い、世界の断面にせまるような事象をおうことできるわけで、なにも惰性で撮ることを続けるべきではないのだろうなと思う。

 

根幹は、わりと短かに、長く太くあるように思う。

自民以外

そもそも、自民党や世の中の王道に対して、同意したことは一度たりとてないわけで。

自民党政治がずっと続いている意味がまったく分からないし、経済的な成功や成長を追うのは、もはや、最高に愚行と思ってますが、自民党政治が続いてるのは、そういう人が少数だからなんだろうけど。

 

昭和の経済成長の夢や、成長イコールいいこと、みたいな価値観は捨てましょうよ。

 

 

向き不向き

圧倒的に、人間には向き不向きというものが、存在すると、40歳近くなるとおもう。

自分は、小さい頃より、自分に無理なことは、たとえ父親母親に詰られようとも、避けていきてきたため、そんなに不向きなことで、ムリな努力を続け、人生の貴重な時間を棒に振ることもなかったから、よかったのかもしれないけれど、真面目で従順、自罰的な、いい子ほど、自分の向き不向きを見失い、無闇につらい仕事を続けているような気がしなくもなくて、もっとやりたくないことには、真っ向から、逃げるべきであるような気がする。

3年は頑張れとか、辞めるな、とかそういう昭和的な根性論みたいなことは、向き不向きを見極めて生きているさきにあるもので、そもそも、むいてるのか、むいてないのか、分からないけど、やっている仕事などというものは、不毛である可能性もあり、やりたくないことからはまずは逃げる、という向き不向きを早くに腑分けするのは大切かもしれない。